第55回(2021年)詩部門入選:吉 岡 幸 一

第55回(2021年)詩部門入選:吉 岡 幸 一

名前  吉岡幸一

「あなたの名前を教えてください」
照りつける真夏の太陽のした
母は庭のひまわりを背にして言いました
クルミのような丸い瞳をして
まっすぐに僕を見ながら聞いてきたのです
からかっているようでもなく
通りすがりの人に道を尋ねるように
用心深い笑みを浮かべていました
息子の名前を忘れた母
おそらくは息子だということも忘れた母
近寄って名前を伝えると
「ああ、そうだった」と頭を掻いて
眩しそうに目を細めていました

「わたしの名前を教えてください」
色づいた紅葉が地面を落ちるころ
母は枯れ木に水をまきながら言いました
妻は夏に産まれた赤ん坊を背負いながら
庭に白い洗濯物を干していました
何気なさをよそおって名前を教えると
「ああ、そうだった」とため息をついて
かなしそうに枯れ木の枝をつまんでいました
妻の背中で眠る赤ん坊の髪が風にゆれ
実のならない柿の木には烏がとまり
隣の家からはカレーの香りがしていました
母は葉が芽吹くことがない枯れ木に
いつまでも水をやり続けていました

「名前なんていりません」
今年はじめて庭に雪が積もった日に
母はひとりで雪だるまを作りながら
部屋から眺める赤ん坊にむかって言いました
コートも羽織らずマフラーも手袋もしない母
うすい寝間着のまま庭にでて
一生懸命に雪をすくっていました
あわてた父がコートを持って
庭にでて無理やり着せると
「ああ、そうだった」と襟元をしめて
恥ずかしそうに雪を握っていました
きゃっきゃっと窓辺でわらう赤ん坊
雪は父と母の頭に積もっていました

「名前を思い出しました」
庭から見える山に桜が咲いたころ
母は日々草の種を花壇にまきながら
どこか嬉しそうに言い出しました
バーベキューの用意をしていた僕ら家族は
驚いて手をとめて母を見ました
「ああ、そうだった」
「わたしの名前はお母さん」
母は両手を空に向かってひろげました
どこからか桜の花びらが飛んできて
はしゃぐ子犬の鳴声が聞こえてきました
焼きあがった串を手渡すと
母は美味しそうに食べはじめました

僕ら家族は潤んだ瞳でほほ笑みながら
母の食べる姿を静かに見つめていました

 

受賞のことば
この度は歴史のある本賞を受賞させていただき誠にありがとうございます。望外の喜びに身が引き締まる思いでいます。今年に入り、すぐに母が他界しました。本詩「名前」を書いたときには母はまだ存命していましたが、詩を書いている時すでに予感というものはありました。本詩に書かれた母の姿が現実の母の姿というわけではありませんが、だからといって全くの創造物というわけでもありません。事実と創作、現実と理想、思い出とその純化、悲しみと諦めが混ざり合っているといえばいいのでしょうか。書かれているものと、書かれていないものがあれば、書かれていないものこそを私は現わしたかったのかもしれません。詩を書くことは自己の救済でもありますが、書いて発表するからには他への救済にもなれば良いと願ってやみません。本賞をいただき、詩を書き続ける勇気をいただけました。本賞の重みに羞じないようにこれからも書き続けていきたいと思っています。

略歴
福岡市在住。明治学院大学卒業。現在はデザイン関係の会社を経営しながら詩や小説を書いている。受賞歴として、第3回岡本彌田詩賞「特選」・第38回TO―BE小説工房「最優秀賞」・ARUHIアワード「ARUHI賞」等。

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