2020年6月号 特集 台所
特集 台所
青木はるみ 裏がえし 4 瀬野とし 台所 5 北島理恵子 あかまんま 6
三ツ谷直子 さばく 7 織田英華 ボウル 8
くらやまこういち 母はいつも起きていた 9 斗沢テルオ 母の台所 10
宍戸ひろゆき 白い割烹着の女神 11 鈴木太郎 ひとりだけの 12 山﨑清子 台所 13
奈木丈 水と火と 14 小田切敬子 炊事場 15 山口賢 新鮮な空気を 16
髙嶋英夫 台所に立つ人 17 坂杜宇 ひとりぼっち 18 古久保和美 餃子づくり 19
浜本はつえ 食卓 20 石関みち子 台所あれこれ 21 いいむらすず まな板が香る 22
豊田智慧子 トミおばあちゃんの家 23 彼末れい子 義母の調理器具 24
滝本正雄 棚の器たちの囁き 25 岩堀純子 皿を洗う 34 風野真季 そこへ行けば 35
玄原冬子 西日 36 柳瀬和美 うた声 37 菅原健三郎 炉から 38
大塚史朗 台所の変遷 39 春街七草 味見 40 上山雪香 食 41 古野兼 芋の軸 42
志田昌教 まずは食費を 43 山﨑芳美 白い湯気の中で 44 水衣糸 台所 45
はなすみまこと 至福の食卓 46 白根厚子 台所に立つということは 47
櫻井美鈴 無水鍋とオーブントースター 48 大釜正明 明るい台所 49
いわじろう 台所が 50 上野崇之 手慣れたはずの包丁に 51 春山房子 母と歩んで 52
奥田史郎 わが台所修業 53 中正勇 台所の窓から 54 水崎野里子 キッチン 55
エッセイ
貧乏物語 山内宥厳 26
「子ども食堂」は何故できたのか? 塚田英子 28
スパゲティの苦い思い出 里崎雪 30
朝の味噌汁 南浜伊作 32
第48回壺井繁治賞 清野裕子詩集『賑やかな家』 56
受賞詩集抄 57 受賞のことば 63 選考経過 64 選評 65
ゆるやかな喪失と再生のことば 中村明美 67
一般詩作品
野口やよい 葉の束 72 檀上桃子 全てはあなたから始まったの 73
草倉哲夫 山の火 74 小森香子 春に想う 75 たなかすみえ 守りたいのは 76
いしだひでこ 大阪 2020年3月 77 柏原充侍 おとんのえがお 78
浦西登 暴風雨と樹 79 かわかみよしこ マスクを作る 80 伊藤眞司 寓話 81
三浦千賀子 弱者の時間 82
書評 熊井三郎詩集『ベンツ 風にのって』 青木みつお 71
志田恵詩集『大好き』 南浜伊作 71
永山絹枝小詩集 母の子守歌 84
地下室の窓 死の勝利 徐京植 88
四季連載 詩の見える風景・ふたたび夏――はじめて出会った詩人たち(続) 杉谷昭人 92
詩作案内 わたしの好きな詩 堀内幸枝 田上悦子 94
詩作入門 六、詩朗読と口語 有馬敲 96
現代詩時評 コロナの時代の愛と詩 上手宰 98
詩 集 評 日常をことばにする 田辺修 100
グループ詩誌評 詩誌を支える素敵な人たち 宍戸ひろゆき 102
自由のひろば 選・都月次郎/草野信子/佐々木洋一 104
村田多恵子/御供文範/立会川二郎/サトウアツコ/石木充子/佐藤一恵/小川桂子
新基地建設反対名護共同センターニュース 83 詩人会議通信 113
●表紙(「2005年ベトナム」)/扉カット 鄭周河 表紙写真あれこれ 柳裕子 116 編集手帳 115
●詩作品
裏がえし
青木はるみ
夢のなかで
台所の雑巾がけをしている
べつに嘆いているわけじゃない
目ざめて また渦巻く姿勢の雑巾を
ぎゅっと絞るとき 汚水が
夢のなかへ滴るのがわかるからだ
滴るものは きちんとした日々の中心を保ち
いとおしいまでに執拗な
知覚の殻さえ かぶっている
台所の床を剥がせば そこが
鍾乳洞であるくらいのことは感付いている
私は産む性として産まれ 赤児は
きりもなく あたり一面を汚す
油断といえば まあそうなので
まるで鍾乳石のような永遠の発育には
制止をかけたくなっている
それかあらぬか
夢のなかでカタツムリを
ひょいと
裏がえしにしたままで目ざめてしまった
(ごめん、ね)
●編集手帳
☆特集は「台所」です。そこに立つのはいつも女性でした。ですから母親の思い出は鮮明です。いまは男性も役割を担っているようですが。台所には、暮らしの中身や国家の施策が集中的に現れてきます。作品にそれがでています。
☆第48回壺井繁治賞は清野裕子詩集『賑やかな家』に決まりました。日常の出来事を描いて、個と個のつながりである現在の家族における生と死を身近に感じさせる独自な詩集です。さらに大きな発展を願っています。
☆新型コロナ感染拡大の緊急事態宣言についての安倍首相の会見をテレビでみて、この人の〝自分ファースト〟は変わりないな、と思い、怒りをおぼえました。嘘、隠蔽、改ざん、破棄、忖度などの言葉がついて廻る私的権力をつくりだしているのです。〝心を合わせて〟コロナと闘えという言葉のなかに、異論を認めない〝一億一心〟みたいな思想がみえかくれしています。
いま私達は、理性の発揮を問われているのです。(秋村宏)
現代詩時評(6月号)
コロナの時代の愛と詩
上手 宰
新型コロナウィルスについては先月号の当欄で柴田三吉さんが触れているが、状況はさらに悪化し政府は五月連休明けまでを暫定期間とする緊急事態宣言を出した。だが、私がここに書くべきは感染状況の最新情報でもなく、どれが正しい政策かの判定でもない。詩人は今何を思うのかということだ。
この事態の中で思い出すのはガルシア=マルケスの小説(映画化もされたらしい)『コレラの時代の愛』である。少年時代から愛していた少女が他の男性と結婚してもなお彼女を愛し続け、彼女が夫を亡くし未亡人になった時に、今一度愛を告げる。愛を得て結婚した時彼は七六歳、彼女は七三歳だった。五十一年九か月と四日、彼は待ち続けた、というのが読者が記憶し愛する伝説となる。かつての少年は、かつて少女だった老女を乗せた船上で、年老いた船長として出航の合図を叫ぶのである。コレラの流行により多くの人が亡くなったが文学の傑作も残された。
これに模して浅はかなパロディ「コロナの時代の愛」を語れば顰蹙をかうことは必至であるが、私はけっこう本気で言っている。今までにない新しいタイプの疫病は不思議な感覚で惨禍を広げつつある。感染力は強いが、発症・重篤化・致死率は低いという思い込みにより対策が遅れ気付いた時には重篤化患者が爆発的に拡大、医療体制そのものが崩壊・無力化している国がある。日本は検査自体をサボタージュする国策により無症状の感染者が巷にあふれており今後予断をゆるさない。。
私が強く感じることはこの疫病の蔓延の多くの部分が人間の心理によって後押しされたという事実だ。中国武漢の流行は世界にとって「対岸の火事」であり、汚染されたクルーズ船は船籍と検疫を理由に乗客たちは浮遊する監獄に幽閉され続けた。だが気付けば次第にウィルスは私たちの近くへと忍び寄ってきた。そして現実を知ることになる。心が恐怖に震え、家族や友人への愛が湧き上がるが、逆に自分たちの安全を願うがゆえに、災厄の影を感じる者の排除へと傾き勝ちである。諸外国での暴力的な差別や排除はまだ日本では目だっていないが、重篤者が病院の廊下に置き去りにされるなどの状況が現出したりすればどうであろうか。
私たちがいま経験していることは感染者・死者数の統計とは別の人間の危機である。経験のないことへのあなどりや傲慢さ、自分だけは大丈夫だとの過信、一歩先に不幸に見舞われた人たちへの無関心と想像力の欠如など、現代人の心の闇が病原菌を生き延びさせているのである。それは今度のウィルスがコレラやペストと違って人間社会全体を攻撃するのではなく(取り付く相手が絶滅すれば自分たちも絶滅するので)一角を壊滅させつつも多くの人間を無症状に放置し感染源とする分断戦略とみごとに呼応しているように思える。
今や飛行機を初めとする交通網の発達により全世界の人々が繋がっている。だからこそ、人間社会がこれまで追求し続けてきたことと逆のことをなさなければならなくなった。すなわち、人と人とを身体的・物理的・空間的に分断し、自らを孤立させ隔離状況に置くことを。ウィルスが仕掛けてくる分断とは異なる意図的な分断である。それをなすためには逆に人間側には精神的な連帯が必要である。目に見えない敵に対峙して、目に見えず肌に感じることのできない意思で繋がり合うことが。その時、心は自分の中を覗きこまねばならない。今私たちがいるのは、死へと繋がる透明な細綱が張り渡されている洞窟である。もし感染したら誰から移されたのかを詮索し憎しみを抱かずにはいられないかもしれない。自分の知り合いが検査で陽性になったという知らせを聞くかもしれない。会いに来るなと。そこに死の影が混じってもできるのは祈ることだけである。
詩人会議も事務所を実質的に閉所するに到ったと運営委員への通信で読んだ。五十七年の歴史で初めてのことではないだろうか。それでも会の運営のためにリスクをおかして事務所に間をおいて通ってくれている編集・事務局の方々に深く感謝申し上げる。忘れてはならないことは、私たちは詩を書くために集っているということだ。「コロナの時代」の災厄を記録するだけでなく「コロナの時代の愛と詩」が語られる時代が必ず来よう。その時まずは生命を守ることに力を合わせた日々を振り返ろう。「文学どころではない」という時代はのちに文学に刻まれるものだ。心が弱った時があったとしても、その中に今までとは違った新しい詩と愛が生まれると信じたい。
執筆時と刊行時との比較のために記す。執筆日は四月十日(金)。都の感染者数は昨日の181人から本日189人へ。