39回(2011)『鬼火』清水マサ:『幻の詩集 西原正春の青春と詩』草倉哲夫

39回(2011)『鬼火』清水マサ:『幻の詩集 西原正春の青春と詩』草倉哲夫

 

1937年 新潟県生まれ。
詩集 『砂丘』『雪・故里』『鏡の中の女』 『鬼火』
所属 詩人会議会員、新潟県現代詩人会会員、日本現代詩歌文学館振興会評議員
所属詩誌 「飛揚」

 


受賞のことば

新しい出発点 清水 マサ

この度は、第三九回壺井繁治賞をいただき有難うございました。詩集発行以来、詩集を贈呈させていただいた方々から毎日のように届くお手紙を読み続けました。沢山の批評や励ましのお言葉を送って下さった皆様に心からお礼申しあげます。
受賞後は知人からのお祝いの手紙や電話等に、賞の重みを感じる日々でした。
前詩集から二〇年という歳月の中で書きためた作品は、すべて私の分身ですが、今回それらを整理して一冊の詩集にまとめたことで、新しい出発点に立つことができました。
私が一九歳で初めて書いた詩が新潟日報の「生活詩」の欄に載り、選者の村野四郎氏から励ましの評をいただきました。当時の詩を読むと、稚拙ではあるけれど書かずに居れないという若さがあって、もう戻れない遠い日々を思い起こします。村野氏の選評との出会いが詩を書き続けてきた原点であることを思うと、壺井繁治氏の「批判こそ、相手への打撃でなく、激励である」という言葉は、まさに至言だと感銘しました。私は七〇歳迄現役で働き通し、その間も詩を書き続けてきました。そのふたつの軸を支えていたのは友人であり家族であったと思います。
そして肉親を戦争で失ったことや、中学校三年生の時の担任教師が教えてくれた社会のことや平和の問題、文学や詩などが私の生き方を形成し、詩人会議との出会いへと重なってきました。『鬼火』発刊に際して、丁寧に根気良く私の再三の要望に応じて下さった詩人会議出版との係わりの中で、一冊の詩集が完成するよろこびを味わうことができました。東北関東大震災の惨状の最中に受賞したことを心に深く刻み、これからも人々との繋がりの中で詩を書いていきたいと思います。


 


 


 


 

 


 

 



略歴
1948年 福岡県生まれ。
1973年 国士舘大学倫理学専攻卒。
2007年 小学校教諭退職。

詩集に『夕日がぼくの手をにぎる』『夏雲』『つきのひかりに』。訳詩集『ハーバースペイの魔法の歌』。原爆体験証言集『いのち愛しき』。評伝『幻の詩集―西原正春』『村の俳句―後藤遊五』


受賞のことば

自分にできることを 草倉 哲夫

壺井賞の選考委員の方から、思いがけない電話を頂いて、びっくりしました。賞など念頭にもありませんでしたから。ちょっとして、これは「西原正春の詩」が認められたのだと思い納得しました。よかったなと思いました。その為に書いたのですから。栄冠はまさに西原正春にあります。私はそのお手伝いをちょこっとしただけです。
私の書いた本が残るとしたら、まさに正春のおかげです。またそれを認めてくださった選考委員の方々、そして私の仕事を励まし、支えてくださった、内田麟太郎さんをはじめ、ハテナの会、「筑紫野」連載を読んでくださった方々にあつくお礼申し上げます。
内田博が『小さな文学史』のなかで、舟方一は、人民の詩の歴史に残るだろうが、西原は無理だろうな。なぜなら彼の主要な作品は散逸してしまっているからと書いていました。しかし図書館の方の協力によって作品が徐々に集まってくるにつれて、作品の力が私に文を書かせてくれました。
また、私自身の表現活動が、自分を
分かってほしいだけの地点から、他者を理解したいという願いに変わってきていたことも、今回の本作りに大きく影響していたのかもしれません。
選考委員の方から、「光を当てた事に意義がありました」と言われた事を励みに、これからも自分ができる事で、自分にしかできない、いや自分しかしそうもない事を明らかにしながら、世界を広げていきたいと思っています。


草倉哲夫受賞著作(抄)

目次
はじめに
1 西原正春とプロレタリア文学運動との出会い
2 大阪時代の西原正春と短歌
3 短歌から詩へ――帰郷直後
4 『九州文化』と西原正春
5 『九州文学』に発表された西原正春の詩
①「裏町の貌」昭和十五年六月号――自らの現実認識と、リアリズム
②「野邊のひかりに」十五年九月号――労働者への共感
③「花びらの如く」自らの思想としての抵抗
④「冬の花」逃避
⑤「旅の夢より」「冬の雨」家族への愛と共同体の底流
⑥「神々の供えに」銃火にのぞむ
⑦「朝の歌」正春の心根
⑧「驛」「沼」別れ
西原正春 年譜

5 『九州文学』に発表された西原正春の詩

①「裏町の貌」昭和十五年六月号――自らの現実認識と、 リアリズム

西原正春が、『九州文学』に作品を発表したのは、二十八歳だった昭和十五年の六月号から、三十歳で召集を受けた十七年七月号までの三年間である。十一篇の作品を寄せている。
これが彼の最後の発表の舞台となった。
最初の作品は、十五年六月号の「裏町の貌――陋巷詩篇のうち――」である。

 


 

 


この作品で正春は自分が生活する大牟田の街や様子や、自分の姿を活写している。「川の水は硫酸臭くどろどろと流れ」「無数の煙突や棟々/のどつ佛がむづ痒く薬品臭」く、「流れて街の腹穴あけ/海へ射精した」。こんな川ふちに並んだ貧しい屋台に、正春は、冬の寒さに吹かれながら、「あかんぼをおんぶして立つてゐた」。みかんを売っていたのである。
二十八歳になっていた正春は、福岡第一劇場で働いていたが、その間に結婚、そして子どもを授かった。劇場は、大牟田の劇場主とのつながりで紹介されたらしいが、給与も少なく、大変だったようだ。
この作品は、以前の体験を詩にしたものであろう。大牟田での姿を描いたこの作品の末尾には「十五年四月作品」とあり、当時は、福岡で働いていたからである。副題にも「陋巷詩篇より」とあり、これまで書き溜めていた中からの掲載と思える。とすると、正春は、生活をうたった詩を複数持っていたのであろう。そしてそれらの作品が以後の「九州文学」に掲載されたのかは定かではないが、たぶん載せていないと思われる。それは、この後に掲載された諸編が、大牟田陋巷のイメージをあまり持っていないからである。
作品を一読して感じるのは、鋭いリアリズムで貫かれているということである。そしてそのリアリズムは、抑制されたもので、決して誇張したりしない。それは、この後に『九州文学』に発表された十一篇の詩全部に通じることで正春の誠実な人柄を偲ばせるものである。その彼の眼が、するどく、公害の現場を捉えきっている。例えば、「養殖の小貝どもは哀れ息絶え/晩めしの海の魚たちは病ひうつされて/街を流れる川の匂ひがした」というぐあいである。
西原や内田博が元プロレタリア文学の同盟員であり、特高に何度も検挙された経歴を「九州文学」のほかの同人たちは知っていたのであろうが、どう思っていたのであろうか。そこはやはり文学者同士の関係で、文学仲間として結びついていたのであろうか。この詩が載っている六月号の後記に、編集の黒田静男が、窓外の初夏の緑は、日差しを浴びて生長の喜びにあふれているが、文芸家も、時局の外に遊離してはいられない気持ちだというようなことを書いている。すでに共産党の弾圧も完了し、前年は、第二次世界大戦も始まっていたのである。

 

②「野邊のひかりに」十五年九月号――労働者への共感

プロレタリア文学運動が、権力の弾圧によって終焉したあと、詩の舞台に踊り出てきたのが、日本浪漫派や四季などの詩人たちである。堀辰雄に師事した立原道造は、昭和十三年の暮れに「長崎の旅」に出掛けている。西原正春より二歳下の二十四歳の時であった。すでに「優しき歌」などを書き終えていた彼であったが、その方向に行き詰まりがあった。その打開と療養を兼ねての旅であったが、長崎で喀血、翌春亡くなった。あの優しさが印象的な彼ではあるが、その旅の間書き綴った『長崎の旅』ノートを読むと、その中に意外な文章を見出すことができる。いや、むしろそれが彼の感覚では普通だったのかもしれない。彼は、東京を出て、奈良、京都を巡り、鈍行列車で山陰を通った。下関までの車内で、彼は、地元の人々に対する辟易した感情をノートに綴っている。「いま僕はこの地方の人たちに対して極端に不信である。無智で残忍な容貌と、その聞き取れない会話」「それらの悪徳の一切が、この地方の人たちから僕に与へられる」と書いているのである。彼はひどくブランド志向の男だったとは、当時彼のマドンナだった水戸部アサイの五十年後の証言である。(田代俊一郎『立原道造への旅』参照)
ほぼ同年代の立原と西原。道造の「優しき歌」が人気を集めている裏で、西原は、劇場で働く娘たちの想いを気遣いながら「野邊のひかりに」を書いた。

 


 

 


公休の日である。いつもは暗闇の中で青い服を着て懐中電灯を持っている案内娘たちがプレン・ソーダの街(船小屋温泉を指す)へ来た。ところが、プラットホームには、彼女たちがどんなにがんばっても手が届かない金襴緞子の晴れやかな花嫁一行がいた。「小鳥達の胸揺れる憧憬の波/波は私の心にもしぶひて/可憐な思ひに濡れるのだつた」「小鳥達は毎日暗いのだ」「きれいな空気が吸ひたいのである」
「白い野茨/赤い野茨/小鳥達は息吹いてひかりにむせ走り/幸せがはしつている」
この詩は、かなり長い詩である。そこには、毎日の苦労をほんの一日解放された娘たちのささやかな幸せを温かく共感的に見つめている正春がいる。プロレタリア詩運動は頓挫してしまったが、そこに流れるヒューマンな思想は、脈々と続いていた。

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