第44回(2010) 評論部門佳作入選 前川幸士

第44回(2010) 評論部門佳作入選 前川幸士

評論部門佳作入選 前川幸士

仏教大学文学部中国文学科卒業、仏教大学院文学部研究科中国文学専攻修士課程終了。1998年より詩人会議新人賞に応募。2008年6月に亡父の友人であったロシア人が来日。


受賞のことば
ほとんどロシア語を解さない私が、僭越にもマヤコフスキーの詩について書かせていただいたものを選んでいただきありがとうございます。翻訳で作品を読んだだけでは、言葉の微妙なニュアンスを解することができないのかも知れませんが、彼の詩が持つ異常なまでのテンションの高さは、充分に伝わってきました。しかし、そこには定着しないまま発展しないまま命脈を絶たれた唐突さがあり、それ故に、今日に至っても解決のつかない問題や課題があり、それが現代の問題や課題に繋がっているように思います。抒情を主とした韻文文学が、社会に着実な変革をもたらすことができる。その可能性をマヤコフスキーは持っていたのではないでしょうか。


マヤコフスキーの詩
詩人マヤコフスキー(, 1893-1930)の創作は、詩作に留まらない。彼の創作活動・芸術活動は、絵画、映画、そして演劇にまでおよぶ。マヤコフスキーの戯曲として、よく知られているのは『南京虫』(1929)と『風呂』(1930)であるが、革命前の作品にペテルブルグのルナー・パーク劇場で自ら主演した長編劇詩『悲劇ウラジーミル・マヤコフスキー』(1913)がある。このタイトルは偶然によって生まれたものであるが、彼の作品の性格、彼の芸術の創造態度を見事に言い表したものでもあった。事実、これは演劇というよりも、劇的な独白、増幅された詩人の自我が表出する騒々しい告白である。マヤコフスキーの詩の場合、詩劇に近い体裁と内容を持つ詩作が多く存在し、特に長詩にその傾向が強い。彼は聴衆の前で自らの詩を朗読する機会も多く、そこにはマヤコフスキー自身が赤裸々に語られている。マヤコフスキーをプロパガンダの詩人と評する向きがあるが、それは彼のある側面を言い当てていても、全てではない。彼の詩作に自分自身を叙情的に詠ったものが如何に多いか、そして彼の最初の戯曲が自らの名を冠した『悲劇ウラジーミル・マヤコフスキー』となり、それを自ら主演したのである。
マヤコフスキーは、1893年7月19日、グルジアに林務官の子として生まれた。この日は旧暦では7月7日にあたるという。地方での貧しい生活の中にあっても、両親は子どもたちに教育を受けさせることを優先した。そのため、時には家族が離れ離れになって暮らさなければならなかった。9歳の時、前年から母と移住していた県庁所在地の市の中学校の予科上級の試験に合格する。試験官の牧師から聞かされた「オーコ」という語が、古代教会スラブ語で「目」を表すことを知らなかったために危うく落第するところであったという。この経験から、マヤコフスキーは、一切の古代のもの、教会的なもの、スラブ的なものを憎むようになり、これが後の未来主義や無神論、国際主義につながると自身が回想している。父の死後1906年にモスクワに出て、ロシア社会民主労働党、社会革命党などのさまざまな政治活動と関係し三度逮捕される。マヤコフスキー少年は、『反デューリング論』(Herrn Eugen Dhrings Umwlzung der Wissenschaft, 1877-78)を机の下で隠し読み、下宿人の学生のロシア社会民主労働党員から勧められて『経済学批判』(Kritik der Politischen
O¨konomie, 1859)や『資本論』(Das Kapital,1867)第一巻等を読んだという。
15歳でロシア社会民主労働党つまりボリシェビキに入党し、モスクワ市評議会地区委員となった。彼が始めて詩を書いたのは、1909年三度目の投獄中であったという。釈放後は美術学校に通い、そこで未来派の画家・詩人ブルリューク( 1882-1967)の知遇を得て、その影響によって詩作に転じる。青年マヤコフスキーは、ブルリュークに古きものの崩壊の不可避性を知っている社会主義者のパトスを見てとった。
マヤコフスキーは、抑圧に対する鋭敏な感覚を持ち、社会全体の構造に対しても抑圧感を持っていた。そして、それに抵抗し壁に阻まれ、自分では何もなし得ないという無力感に陥っていたのではないだろうか。そのような時、むしろ政治の中で行動するよりも、言葉の力に賭ける、言葉の力こそが世界を変えると感じたのではないだろうか。社会との対立の中では敗北しても、詩人としてはそれに打ち勝つことができると信じたに違いない。
1912年頃から本格的な詩作に入ったマヤコフスキーは、その年の11月、まだ象徴主義の濃い最初の抒情詩「夜」「朝」ができあがる。これは年末に発行された最初の未来派文芸作品集『社会の趣味を殴る』に掲載される。その「夜」の冒頭部には、「緋と白が投げ出され揉みつぶされ/金貨は緑のなかに一掴み投げ込まれ/駆けつけた窓たちの黒い手のひらに/燃える黄色のトランプが配られた。」とある。この部分において、詩のテキストが描き出す物語性や時間性、線状性、継起性を全て否定し、詩が絵画的イメージの断片の堆積となっている。ここには一人称は登場しない。一人称が語る抒情というものもまた存在しないのである。しかし、このマヤコフスキーのデビュー作では、一人称の消去という課題は徹底されなかった。その最終連において、「ぼくは、ドレスの誘いかける脚を感じながら、/彼らの目に微笑みを押し込んだ。」と一人称が登場するのである。
『社会の趣味を殴る』は、ロシア・アヴァンギャルド( )
芸術運動マニフェストである。これをマヤコフスキーは、ブルリューク、フレーブニコフ( , 1885-1922)らと共同で執筆する。その冒頭で「われわれだけが現代を代表する者である。…過去は狭苦しい。アカデミーやプーシキンは象形文字より判り難い。プーシキン、ドストエフスキー、トルストイ等を現代の汽船から放り出せ」と宣言している。ロシア・アヴァンギャルド芸術運動とは、20世紀初頭、テクノロジーと物理学が切り開いた巨大な認識革命をバックに、それまで貴族やブルジョワによって手厚く庇護されてきた芸術の形式をことごとく破壊する一大文化革命である。その革命の波は、文学、美術、演劇、映画、建築など文化のあらゆる領域におよび、「ロシア未来派」()と呼称されることもある。
ロシア・アヴァンギャルド芸術運動の象徴ともいうべきマヤコフスキーであるが、実は詩人としてはロシア未来派内の異端児であった。未来派の詩人たちの共有していた問題意識は切断である。過去の文化遺産を否定し伝統と訣別する。詩作においては私=詩的自我を追放することが切断である。そして、この芸術運動の主流は「知的なアプローチによる芸術革命」にあり、その端的な例が「ザーウミ」(Zaumi)と呼ばれる言語解体の実験である。「ザーウミ」とはロシア語で「知(ウム)」の「彼方へ(ザ)」を意味し、一般には「超意味言語」と訳されている。簡単にいえばアルファベットを恣意的に組み合わせた一種のナンセンス言語である。未来派の詩人たちは、このような微分化された知の領域に入り込み、世界を認識する手段としての知の体系そのものを根本的に変えることによって、人間や社会を、世界全体を変革するという方向をめざしたのである。マヤコフスキーも、当初は同時代のラディカルな空気を吸って「知的なアプローチ」をめざしたが、最終的には「詩的自我」は切断できないとの自覚に立ち、きわめて挑戦的なスタイルによって新たな「私」を詩作の核においたのである。やがて、マヤコフスキーは「知的なアプローチ」そのものから乖離し「抒情」という「身体的なアプローチ」による芸術革命をめざし始める。マヤコフスキーがめざしたのは、あくまでも叙情的な「私」=自我である。叙情詩とは、人間の内面における人間と社会との関連、人間と世界との接点の表現形態である。抒情詩には必ず「私」という主体が隠されている筈である。私は思う、私は見た、私は感じるというように表現していくのが抒情詩である。私という主体を押し広げ、世界と対立し、世界を打ち壊すというのが前衛詩人としてのマヤコフスキーの基本的なスタンスとなる。
1913年の「ぼく」において、そのタイトルが示す通り、叙情的な自我が挑発的に作品の前面に登場している。「ぼくの踏み荒らされた魂の/舗装道路に/狂人たちの足音が/こわばったことばの踵をよじる。/街々が/首を吊り、/雲の縄に/塔の/まがった頸が/冷えたところを、/ぼくは行く、/ひとりで泣きに、/十字路が/警官を/磔刑にしたと。」とあるが、ここにはマヤコフスキー自身の内的風景が驚くほど正確に写し取られている。もっとも、ここで表現されている一人称は、日常の「私」ではない。詩として、外部である社会に向かって押し出された「私」、言い換えれば演出された「私」である。以降、マヤコフスキーは現実の社会に対して、現実的な力を持ち得る唯一の「私」として、この演出された「私」を使い続けていく。マヤコフスキーは、本格的に詩作を開始してからわずかに一年で、未来派が厳しく退けようとしていた「私」という詩的自我を自らの詩作の中核に据え、過去の詩的伝統と対立しようとしたのである。この開始点において、マヤコフスキーは未来派、あるいはアヴァンギャルドの主流ではなかったのである。そして、この年の処女戯曲である長詩劇『悲劇ウラジーミル・マヤコフスキー』は、それを広くアピールするものであった。
叙情的な自我・私を主題とした詩作のスタイルを確立し始めたマヤコフスキーであるが、当然のことながら、その「私」を伝統的なスタイルにはめ込んでいくことはなかった。その点において、マヤコフスキーは独自の位置を占める意志の貫かれた詩人であった。この時代、「ザーウミ」による音声詩にこだわる「ロシアのダダ」クルチョーヌイフ( 1886-1968)、恣意的な音声の連なりの中に原初的な普遍性を求めようとする詩人フレーブニコフ、スプレマティズム()と呼ばれる「絶対絵画」の創造をめざし、対象への志向をもたない純幾何学的フォルムの組み合わせを通して視覚的なレベルにおける認識革命をめざした画家マレーヴィチ( 1878-1935)らが、限りなく微分化された「0(ゼロ)」に近い何かに「私」の原点を探り出そうとしていた。いわゆる自我の無化であるが、これに対してマヤコフスキーは、叙情的な私を限りなく巨大化させていく方法、つまり自我の拡大をめざしたのである。これは後にトロツキー( , 1879-1940)によって「自我の宇宙化」と名付けられることになるが、マヤコフスキーの抒情詩の持つ魅力は「自我の宇宙化」に向かうプロセスで探り当てられる詩的な自我の多様性にあるのではないだろうか。マヤコフスキーは、この方法を自覚した時「私」は詩人のパーソナルな生活を離れて、それ自体がドラマ化された宇宙へと移行していくのである。

以下、詩人会議2010年5月号をご覧ください。

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