37回(2009)『生きるとは』小森香子

37回(2009)『生きるとは』小森香子

 

略歴

一九三〇年東京生まれ。相本修平・ふじ三女。
都立第十高女三年から学徒動員、三月十日大空襲後疎開地で再び動員、十五歳の夏終戦。
翌年春神戸女学院家政学部入学、自治会規約改正などで活動。
卒業後日紡本店勤務、レッドパージ。
五一年帰京、小森良夫と結婚。働きながら新日本文学会で詩や小説を発表。
六一年から四年間子連れで夫の任地プラハ在住。帰国後詩人会議参加。

 


受賞のことば

愛するものゝために 小森 香子

七九年も生きてくると、おおかたの悲しみ苦しみ、少しばかりの喜びや嬉しさは体験してしまったけれど、此度びの受賞は正直いってほっとする思いだった。これで彼岸に渡っても壺井さんから「お前 いつまで何やってる」とお叱りをうけずにすむ、と思った。
とにかく詩人会議に入って詩を書くことを夢みてプラハから帰国したのは三五歳。二十代の書きたい盛りに文学団体の分裂とむなしさで筆を折って十年だからすっかり生き直す思いだった。
壺井さんがあの狭い大久保の事務所を五階まで階段登って会議に出席される。入るなり常任運営委員とかにされて詩人会議叢書で詩集を出して。日本子どもを守る会で働きながら夢中で書き、活動した青春のやりなおし。
頼りにしたい息子は北海道だし、夫は日本共産党本部の労働と平和問題のかけもちで夜の夜中まで。しかも夜食は私が運ぶ。胆のう症や腎盂炎で倒れた時、ささえてくれた娘は山に消えてしまう。八王子の山脈の見える丘に墓を買った時、夫は「ここが終のすみかだな」と言った。私は娘の画題「愛するものゝために」を墓石に彫ってもらった。今二人ともそこに眠る。肉体は分子と散って千の風となっているだろう。そして私は世界中の愛するもののために詩を書き続ける。それが生きる力となる。
今回の詩集は秋村宏さんが編集してくださった。それまでの自分が編んだ数冊は、とにかく何もかも記録しておきたくて重複したり、ノミネートされても落ちて来たが、客観的に詩人会議掲載詩を拾っていただけてよかったと思う。夫の介護と死のつらさのあとに、さあ もういいよ、とやさしく言っていただいた壺井賞だと有難く思われる。
今まで選ぶ役、賞状をお渡しする役を何度もつとめてきたから心から感謝。


もうじき桜が

もうじき桜が 咲くというのに
今年は いっしょに 見られないんだね
それを知ってて あんなに 去年は
たくさん写真を とったのだろうか
空蝉橋の我が家の近くや都電に乗って面影橋
コンビニに私を走らせ 使いすてカメラで
川面に枝をのばす ほの紅い花々をとらえて
パーキンソン病なのに 全くぶれず きれい
登山帽かぶった立ち姿も帽子をぬいだ銀髪も
しっかり背筋を伸ばして立っている あなた

もうじき桜が 咲くというのに
たった ひとかかえの 骨となってしまった
それでも書きのこした 遺書のような本一冊
桜の頃に書いていたのは戦時下の教育の姿
よく私にきいたね あの頃の唱歌や軍歌を
なんでこんなもの覚えているんだろう と
口惜しがりながら すらすら思い出した私
東京大空襲の時の正確な数字をと探した資料
記録する会にかかわっていた私が持っていた
米軍作戦任務報告書は リアルで役に立った

暑い夏の夜も あなたは書きつづけていた
三高から勤労動員された川崎航空機明石工場
四五年一月一九日の空襲で犠牲となった人達
和歌山の女学生たちの記録を涙して読んだ夜
病気のために他人には読めないような文字を
判読しては清書しつづけた あの夏の日々
自衛隊の小牧飛行場を造らされたのは俺達だ
地図を買わせ資料を集め自衛隊まで電話をし
事実の裏づけをとり続けた時は声も出ていた
古い写真を探し近所の写真屋に焼き直させて

真実あなたが生命かけて書き残した戦争体験
『市民はいかにして戦争に動員されるか』
―戦争史の底辺を歩んで― が出版されたよ
あなたの親友 品川正治さんが 序文を書き
あなたの息子が心こめた解説を 書いて
病苦が胸をしめつけ 息もできなくなるたび
あなたは軍事教練にいためつけられた青春の
痛みを まざまざとその肉体に感じながら
口述筆記したあとがきで 若者達に呼びかけた
〝戦後日本の やけただれた国土の上の
パンドラの箱に残されていた「希望」は
憲法九条だったのです…世界に広めて〟と

*〔新版〕『東京を爆撃せよ』(奥住喜重・早乙女勝元共著)


引越し

四十五年も住んだ家は どこも 何もかも
想い出に つながらぬものはない 庭の木々も

ほこりまみれの 本棚の隅から出てくる
息子の修学旅行のみやげ 娘の友からの便り
当人よりも 私たち親にとって 胸をうつ物たち

昔 若い童話作家の為 母がこの家を借りた
家主は母の教会友達で娘同士が小学校同級生
作家は老母や妹たちとボンボン時計を抱えて
ここに越して来た 私の姉の恋人だった

そして戦争が始まり 彼は中国の戦野に消え
小学校の教師だった姉は独り身を通して自死した
ああ 姉が彼の妹と此処に住んでいた頃 私は
何と無邪気に出入りし 世話になったろう
空襲で焼けた生家跡に家を建て此処は私の住家に

それから四十五年だ 定年退職してから姉は
彼の妹と共に暮しつつ 次第にウツになった

ほこりまみれの 階段の壁には 黒猫の絵
息子が五歳位の時 伯母ちゃんの愛猫を描いた
今でも その子孫がそこらでノラ猫になっている

小学校で教えた子が沢山いるから淋しくない
そう言いながら姉は 七十歳で ひとり去った
それから数えても二十年 取りこわす借家をあとに
私達は新しい生活を始める 八十歳と七六歳が

たとえ幾歳でも いどまねばならぬ 生活とは
常に 新しい生命への挑戦であり営みなのだから


栗つややかに

栗をむく
大きくまろやかな
つやつやと 美しい 栗だ

仲の良かった 兄の十三回忌 病夫を抱え
ゆかれないので 毎年送る洋花の
今年は白ばかりでなく少し淡色のアレンジメント
東京からの注文だから見たわけではないが
〝とってもいい雰囲気で〟と義姉の電話で

お供養の菓子や タオルでくるんだワイン
仙崎のピカピカのいりこや自作の柚子味噌
徳山の屋敷庭の甘柿と つやつやの栗
義姉の小包をあけると母の匂いがする
あの秋 兄はこの栗も食べずに肺ガンで逝った

兄は 義姉にとって三人目の夫であった
父のすぐ上の伯父の 二人の息子は
あの戦争の時 次から次へと特攻で散った
伯母の家筋から嫁ときめられた少女は
征く夫と杯のみを交して 見送った 二度も

還らぬ人を待ち 伯父伯母につかえ 旧家で
伯父の趣味で謡曲や仕舞をよくし姿のよいひと
戦後私が身につけた従兄の白い絹マフラーは
本当は このひとのもので あるべきでは…
私のためらいもよそに兄は伯父の養子ときまる

きっと生まれてはじめての幸せが 二人にあって
三人の息子 孫たちにもめぐまれて 義姉は
平和憲法守りぬく党へと頼む私に 電話口で
〝ごくろうさんやね いつも新聞送ってくれて
寒うなるけん からだ気いつけんさいよ〟

この甘い栗のように やさしく
大きく まろやかに
つやつやと ほほえんでいる

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