自由のひろば選(2020.7)

自由のひろば選(2020.7)

自由のひろば

アゲハ蝶と私    サトウアツコ

ことし最初に
みかけたアゲハ蝶は道端に落ちている
買い物からの帰り道
このままじゃつぶされちゃうよ
迷うことなく
自宅へ持ち帰る

アゲハ蝶を手のひらに乗せれば
いつだって飛び出せるくらい
かるいからだは風を探している
さっきまで両手に抱えていた
荷物のおもさも吹き飛ぶくらい
私は急ぐ
もうだめかな
夜のリビングテーブルで
アゲハ蝶は同じ姿勢のまま
ぴくりとも動かない

人は痛みがあれば
口に出して言えるのに
虫の世界では助けてくれる
お医者さんもいない

具合が悪くても顔色一つかえないで
怒鳴り散らさず
息をひそめて命あるかぎり
生きようとする

もう飛べない空は
遠く感じることでしょう

春のつめたい風が
少しだけやわらかく
レースのカーテンをにぎり

閉じることのない
アゲハ蝶のはねがゆれている

 

●選評

選評=草野信子
サトウアツコ「アゲハ蝶と私」
書き出しの二行。また、「かるいからだは風を探している」という一行。「飛べない空は遠く感じる」という感受の仕方。魅力ある表現で、アゲハ蝶の死を感傷なく伝えています。けれど、忘れがたかったのは「怒鳴り散らさず」と書かれていることでした。激しい言葉ですね。そこに、具合が悪くなったときに、怒鳴り散らすひとの存在を感じました。サトウさんの心のなかに、具体のひとの姿があるのでしょう。本作が根底に抱えもっているのは、そのことへの、サトウさんの悲しみ、そして、慈しみだと思います。
御供文範「ヒヨドリの伝言」
好エッセイを読んだ時のような心地よい味わいがありました。散文的な印象を残す記述もありますが、もちろんエッセイとは一線を画すものです。ここでは、雑木林の樹々のもとに立っている現在の時間、ヒヨドリが鳴き声をあげる〈たった、いま〉が、言葉で定着されています。ヒヨドリの姿は御供さんの思索内容を語る喩となっています。それらは、詩の表現によって可能になったものです。最終連が美しく〈詩〉を感じることができました。
岡村直子「ローカ」
岡村さんにとっての廊下、学校という世界と、「団塊世代」にとってのそれとを、まず対比しています。少し先の世代として、岡村さんは「団塊世代」に批判的です。彼らは、よき社会、よき世界をつくることに力を尽くしてこなかった、という思い。カタカナ表記やダジャレによって、ユーモアをこめようとしても、岡村さんの無念が滲んできます。まっすぐな怒りの言葉よりも、身に応えます。
むらやませつこ「宇宙時間」
タイトルに惹かれました。「陽」とあるので、太陽系が形成されての四六億年でしょうか。気宇壮大ゆえに、ともすれば荒唐無稽になりがちなそれを、一編の詩として差し出してくれたむらやまさんの、表現の構成力、それを支える確かな知識に敬意を抱きます。なにより、根底にある、人という生きものとしての、生の実感。そこにある生の肯定に励まされます。
小田凉子「この山道」
前半には「この山道」を上っている小田さんがいます。一転して、後半は「山道」の過去が語られています。沖縄戦の戦跡を訪ねられたのですね。評者は、本作に導かれて南風原町の戦跡〈陸軍病院壕群〉について調べ、「飯上げの道」の映像を見ることもできました。「難渋」したのは、道の険しさのせいだけでなく、その悲惨を伝える苦しさだったのだろう、と想像しています。結果、小田さんは静かに語りました。
立会川二郎「最後の空襲」
「東京大空襲の後に」は「前に」と言い換えたい思いがあります。仮定はさかのぼって、いくつも成り立つのです。広島の、長崎の前に。沖縄戦の前に。さらには、と。御聖断、という言葉には、カギ括弧をつけてはどうでしょうか。イージスアショアについて触れたことで詩の奥行が深まりました。
藤丘悠河「街に吹く自由詩の風」
「街に吹く風」を、七つの短章で構成しています。「自由詩」と題するにはもう少し、藤丘さんの発見が必要ではないでしょうか。テレビに登場する人たちへの批評も、すでに多く指摘されていますね。言葉を〈カケラ〉としてではなく、〈表現〉として短く差し出す難しさを感じました。

選評=佐々木洋一
サトウアツコ「アゲハ蝶と私」
昆虫は、時期が来れば姿を現します。主な目的が、遺伝子に導かれるままの生殖であるとするなら、いつ、どこで、どのように姿を現すべきなのか。一歩誤れば、子孫を残すという目的が果たせません。おそらく目的を果たせないまま死に絶えるものもあるでしょう。そんな蝶に、切なさを感じるのは人間だけで、人間でもサトウさんのような心深い人。心深い人が、蝶の姿に自身の命の必死さや淡さを投影しているのかも知れません。どこまでも儚い、そんな蝶の姿を浮き上がらせています。
御供文範「ヒヨドリの伝言」
5連目と終連との関連で、「ヒヨドリが西方向きの姿勢を変えることなく/なにを伝えようとしているのだろう」は、いったい何を示唆しているのか。日々右往左往しながら生きるものと、ひたすら信じるものを求めて動じないものとの対比。ヒヨドリが一心不乱に見つめる先は、西方浄土ではなく、そこに生きることの意義か。実際は、うるさく飛びまわるヒヨドリですが、そんな中から存在の有り様を掬った作者の懐の深さが魅力です。
岡村直子「ローカ」
戦後の貧しさの中、産めや増やせの団塊世代。木造校舎の廊下は、休み時間になると子どもたちの溢れるような笑顔。袖口は拭った青っ洟で光っていたが、おおらかな日常が活きていた。戦後の日本を、一生懸命働いて支えてきた。そんな団塊世代もいつしか後期高齢の老人に。廊下とローカの同音語を使い、諧謔とも皮肉とも、おおざっぱとも言える内容ですが、表現への棘を含んで鮮やか。終連の「老化が/束になって/走って/いく」の束は、団塊世代の悲哀の象徴と言えます。
むらやませつこ「宇宙時間」
木や草や風は、時間という束縛の中で、日々変わらなく存在しているようでも、内からの気や外からの人の力などによって自在に変化する。一方、泰然としている陽は、変わりようがないように見えるが、宇宙時間の中では、やがて変化を遂げられる。といったスケールの大きな作品のように思うのですが、今一つ捉えきれませんでした。
小田凉子「この山道」
作者は、山道を辿る中で、かつてそこであったひめゆりの少女たちの辛苦を思い起こした。過去の史実を現在に引っ張ってくる書き方はよくある手法で、イメージとしてもこれまであったもの。作者独自の捉え方がないと、歴史的事実に寄り掛かったままの作品で終わってしまう気がします。末尾の「この山道は 飯上げの道」は、リアリティーのある終り方です。
立会川二郎「最後の空襲」
戦争末期の実態を、具体の数値を用いながら表現していることで、より現実味が増しています。これはこれで負の歴史をさりげなく抉った優れた作品となっていますが、方法としては、これまでと同じく類型的。終連により締ったのですが、戦争に対する作者の思考をもう一歩深めて欲しい。
藤丘悠河「街に吹く自由詩の風」
それぞれの連は関連性がないのですが、全体では、風のルートのように繋がっています。特別な思いがあるわけではなく、気の向くままに吐露された言葉は、流暢で爽やか。対象を引きつけないことで、自由度が増しています。詩を描くものは、どこまでも自由であること。そんな清々しい姿勢も感じます。

選評=都月次郎
サトウアツコ「アゲハ蝶と私」
蝶の危難に遭遇した作者は、なんとか助けたいと願うが、その命は今まさに消えようとしている。小さな蝶を前にして、自分の生き方を見つめ直している。本当は命は皆平等だ。けして人間がえらいわけではない。そのことに気づいたひとは、こんなに優しく美しい詩が書ける。どんな眼をして何を見つめるのか、それが詩を書くということなのだろう。
御供文範「ヒヨドリの伝言」
この作品もヒヨドリを見つめながらしっかりと自分を見つめている。樹も鳥もみな生きており、その生き様が私たちに多くの声を聞かせてくれる。自然が語る言葉を聞く耳を持っているひとだけがこんな詩が書ける。存在するだけで尊い、本当にその意味がわかるのは存在が危うくなったときなのかもしれない。
岡村直子「ローカ」
廊下がいつの間にか老化になってしまったという、ちょっと楽しく切ない作品。私も同じ団塊世代なので、夏は暑く冬は寒い、プレハブ教室の長い廊下を思いだす。「タバに生まれタバに育ち」というのはちょっと分かりにくかったが、終連の「束になって」で納得した。団塊エレジーはまさに地球エレジーなんだ。
むらやませつこ「宇宙時間」
壮大なスケールだ。視点はドローンのように自由に飛び回り、最後には大宇宙へ。「束縛」が見えづらいが、それぞれの生きものの宿命のようなものだろうか。また「呪縛」も同様のものか。「ある時/人は木に寄り添う/もう一本の木になるだろう」はイメージが鮮明で、美しく響いてきた。
小田凉子「この山道」
沖縄のひめゆり部隊と呼ばれた少女たちの悲惨な戦争体験を、静かな語り口で、見事にまとめ上げた作品。「飯上げの道」と呼ばれた急な山道を、作者が実際に歩いている。だから道の細かな様子や、少女たちの声や息遣いまでがリアルに浮かび上がって聞こえてくる。同じ道を歩くことで、少女たちの哀しみをしっかりと抱き留めた。
立会川二郎「最後の空襲」
終戦前日の米軍の無差別爆撃とも思える様子が、丁寧に調査され綴られている。戦争は殺し合いだ。たくさん殺し、破壊した方が勝つ。殺された方は血を流し苦しみのたうつのだが、殺した方は高い所からボタンを押しただけなので、流れる血の色や、ちぎれた手足を見ることはない。これからの戦争は更にゲームのようになってしまうだろう。しかしこんなに大量消費することは他にないので、武器商人や愚かな政治家達はけして戦争を止めようとはしない。終連の三行がその道へと続いていることを教えている。
藤丘悠河「街に吹く自由詩の風」
なぞ解きや漫談のような口調で、五行詩を展開している。ユーモアも大切だ。良質のユーモアは読者の共感も得やすい。内容はほぼみんなが思っていそうなことを書いているので、自然にすっと入っていける。こういうスタイルの詩は、割と書きやすい。あとは自分の足場と視点を、しっかりと固めておくことだ。
今号もかなり力作が多かった。この他に小川桂子「後期高齢者の過信」、坂田敬子「自然にかえる」、天王谷一「春に」、永瀬つや子「自分の持ち場」等がすとんと胸に落ちてきた。

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