第49回壺井繁治賞 白根厚子詩集『母のすりばち』

投稿日時: 05/07 yashiba

●白根厚子受賞詩集抄

母のすりばち

母は よく話をした
東京の空襲がはげしくなって
父の田舎である秋田へ疎開
そんな中でも
母は いろいろと語ってくれた
すりばちもその一つだ

秋田へ疎開して何年過ぎただろう
東京へ帰るめどもたたず
父は鉱山の職場へ仕事に就いた
母はあきらめがつかないのか よく溜息をついていた
ある日 父が花輪町へ行こうと わたしと母を連れて行った
ずらりと上から 下まで商店街だった
戦争が終わってから 三~四年だったろうか
この街は むかしのにぎわいを取り戻そうとしていたにちがいない
母の嬉しそうな顔をしばらくぶりで見た
荒物屋ですりばちをかったのだ
母の料理は なにかとすりばちをつかう
すりばちでごまをする 味噌をする……
――このすりばちはじめて 父ちゃんに買ってもらったんだと
嬉しそうな顔がわすれられない
すりばちも 二十年 三十年使うと 
目がすりへって使えない

疎開してから 二十五年目東京へ戻った
すりへったすりばちも荷物の中にあった

あの すりばちを買った商店街は 鉱山が閉山になってから
シャター街になった
もう 思い出のひとこまになってしまった
すりばち型の 盆地の町だ

 

 

戦争の遺品

我が家には表彰状というのか 証書がある
それは もうセピア色に変色しているが 
このことに気づいたのは 父が亡くなって
残された遺品の中にあった
――支那事変従軍記章之証とあり
一緒にしまわれていた
父は 昭和十五(1940)年中国へ戦争に赴いていたことになる

父の話では 青森の下北半島の突先にいて
通信兵として敵の信号を傍受していたと言っていたが
最初の徴兵で中国へ行ったのだろう
何故 話さなかったのか……
あの証書と 記章はなんだったのか
父は 一兵卒として中国に行き
次々に村々を焼き払い食料を奪って進軍する兵だったのか

中国帰還後 また召集令状がきた
父を真中に家族と撮った写真のなかに
三歳のわたしが日の丸の旗をもって立っている

従軍慰安婦だった人の証言にある
 日の丸の旗がやってくる!
次つぎと戦場となり
多くの人々が死んでいった

古い風呂敷包みをあけると
父が戦争から帰ってきたときの茶色の肩掛けカバンがでてきた
その中に日の丸が入っていた
そういえば母の古いタンスの中に セピア色の賞状と記章があった

 


はなからくさ

池袋から電車で数駅 染物工場が点在していた
神田川沿いを歩いたが
不思議なほどきれいな水が瀬音を立てていた
どこか遠いところへ迷い込んだような……
瀬音が私の背中を押していく

帯揚げを染めようと尋ねてきた染工場は
川沿いにあった
入り口に型染めの型紙がたくさん置かれていた
江戸小紋のさまざまをここで染めてきたのだろう
板場という染工場に通される
明治の頃から使われている檜だという板が
天井からすぐ取り出せるように置かれていた

型染めの手ほどきを受ける
私は はなからくさの型をえらび
型紙を絹の布にのせブラシで染めていった
四色のはなからくさ
紋様がそまるたびに世界が広がっていく
遠い瀬音がきこえてくる

母はからくさ模様の風呂敷に着物を包み
なんど引越ししたのだろうか
戦後の暮らしのなかで売り払ったが
辛子色の着物だけは手を通さないままある
いま できあがったばかりの帯揚げが似合いそうだ
帯は藍色 帯締めは何色がいいか
瀬音とともに母の声がきこえてきた
いい色の帯揚げになったね

 


百匁柿 Ⅱ

めっきり寒くなった
百舌鳥が仲間と鳴き交わしている
まるで 冷たい空気を引き裂くようだ

強い風雨にも柿は無事だった
だいぶ色づいている
数えてみたら一一個あった

一個を鞄に入れ病院へいった
数日前 退院して自分のベッドにかえったが
三日後に大量の血を吐いて
救急車で癌研へもどった

夫が落ちついたころ
 ほら見て 食べたいでしょう
柿をてのひらにのせて
こどもをじらすようにいった
九月六日からいっさい食べ物は制限されていた

大きく色づいた柿に見入っていたが
私に食べてみろという

私の好きな柿は富有柿だけどね
食べるわよ 大きな柿にかぶりついた
歯が悪い私 堅い 噛めない
それでも もぐもぐやっているうちに
百匁柿の甘さが口の中にひろがっていく
夫は 私が食べている柿をいっしょに
 味わっているようだった
しだいに痩せていく夫の姿を見ながら
柿にかぶりついていた
これで 味がつうじていくのならと……

 


台湾のおばちゃん

父の実家へいくと
よく 台湾のおばちゃんの事が話題になった
おばちゃんは 台湾で暮らしていたのだ
戦後七~八年たった頃だったか 
おばちゃんが秋田に帰ってくるというのだ
法事かなにかあったのだろうか
その日 大勢の人が集まった

おばちゃんは身振り手振りで語っていた
台湾から船を乗り継いで大海原を
渡ってきた話には どきどきした
そんなに遠い所から秋田の山奥までやってきたのだ
おばちゃんには 何もこわいものがない
そんな人に見えた
おばちゃんは また台湾に帰って行った
それから どうなったかは知らない

海を越えてはるばるとではなかったが
飛行機で四時間 眼下に海を見ながら台湾に渡った

台湾の台北にある 
迪化街に足を踏み入れた
昔からの商店街だというが
バロック風の建物が異国情緒をかもしだしていた
茶葉 漢方薬 カラスミ フカヒレの海産干物等
めずらしいものが並んでいた
「ニイハオ こんにちは」
と 声をかけられてはっとする
台湾のおばちゃんじゃない……?

この街は 日本の統治下
日本人の多くが住んでおり空襲もあったのだ
群れながら逃げ惑う人々がうかんできた
街並みに呑み込まれたかのように立ちすくんでいた
 おーいこっちだぞー
市場で夫が手をふっていた

 


被爆者の夢

長崎で一発の原爆が投下された
――俺は青年だった
助けだされ死なずに済んだが
友人は白血病で死んだ

いま青年は老人になった
顔には シミが浮き上がり
落ちくぼんだ目がギラギラ光っている
しわしわの首筋には十センチばかりの傷が息づいている
あの時の傷だ
老人は夢を見たと 話しだした

夜――
月の光で線路が光っていた 駅舎が見える
向こうから誰かが よろよろと歩いて来る
いまにも倒れそうだ
その人の顔をみると 昭和天皇だった
老人は天皇を抱きかかえた ずしりと重い
救急車をさがすのだが
静まりかえって
月の光だけがこうこうとあたりを照らしている
気がつくと 天皇は消えて
洋服だけになっていた

老人はここで夢からさめた
額にじっとり脂汗をかいて……
あれから六十年
体じゅうに被爆の苦しみが
蜘蛛の糸のように這いずりまわっている

老人は
何故天皇を抱えて歩いたのか
そして 何故天皇が消えてしまったのか……と
話すのを 私は聞いている

 


ほたるぶくろの花が咲いた日

アメリカ大統領オバマ氏は原爆慰霊碑に
花を捧げている
この頭上にはじけた原爆のすさまじさ……
目を閉じて
瞑想しているのだろうか

家の中を風が通っていく
庭に目をやると
一つ 二つ 三つ……
ほたるぶくろの花が
提灯をかかげたようにゆれている
まるで ヒロシマ ナガサキで死んでいった人々に
祈りを捧げるように
ほたるぶくろが
ひろがっている

オバマ氏のメッセージは心打つものだった
核廃絶を願い被爆者と心をかわすハグを
世界に見せた

オバマ氏のヒロシマ訪問は一時間たらず
エアホースワンのタラップを上がる
あとから 核のボタンが入った
黒いアタッシュケースを持った軍人が続く
もうヒロシマは夕暮れていた

ヒロシマのざわめきが聞こえただろうか
ナガサキのざわめきが聞こえただろうか
原爆で焼かれていった人々のざわめきが
聞こえただろうか
庭に風が吹いて
ほたるぶくろの花をゆらしていく

 


●受賞のことば

S先生の贈り物   白根厚子

 高校一年生になった年に、新任の国語の教師がやってきた。S先生は、黒板に詩を書きだした。
こころよ
では いつておいで

しかし
また もどつておいでね

やつぱり
ここが いいのだに

こころよ
では 行つておいで
(「心よ」八木重吉)
 私は、あっけにとられた。いつのまにか詩の世界に取りこまれていた。
 S先生の黒板の詩は、続けられた。多くの詩に出会ってきた。生きるという事を考えさせられた。この心を失ってはならないと、何度、立ち止まった事か。
 電話が鳴った。
 選考委員長の上手宰さんの声が届いた。『母のすりばち』が壺井繁治賞に選考されましたと、一瞬、体中を電気が走った。私は、よろよろする身体をピンとのばした。
 皆さんのお蔭です。夏の詩の学校、詩の会、平和のつどい、各種講演会等で沢山の事を学んできました。
 そしてS先生のおかげです。
「S先生、私やりましたよ。壺井繁治賞です。聞こえていますか」
 「おー」
 S先生の声が返ってきた。
 後日、S先生の息子さんに電話をしたら昨年亡くなり、私が送った本も書棚にあったと―。

 


●略歴

 1943年、東京芝・済生会病院で生れる。その後、秋田へ疎開。父は出征、帰還後、秋田の尾去沢鉱山に定年まで勤めた。
 高校卒業後、ドレスメーカー女学院へ入学、デザイナー科卒業、ニットデザイナーとして五年間勤める。
 その後、三人の子どもを育て、公民館で様々な活動から、児童文学の勉強をする。そして、詩人会議へ現在に至る。
 詩集『胸のどどめき』『十センチの平和』『わたしの記憶』『壁に花を描く村』『母のすりばち』。童話『人形がかぞえるこもりうた』『あやちゃんのスケッチブック』等。


永山絹枝著『魂の教育者 詩人近藤益雄』