現代詩時評 いのちを享けた意味

投稿日時: 2020/06/10 yashiba

●現代詩時評

いのちを享けた意味
柴田三吉

 二〇一六年に起きた「津久井やまゆり園殺傷事件」の一審判決(三月十六日)で、植松被告に死刑が言い渡された。被告は控訴せず刑が確定した。
 事件を起こした動機が、「障害者は生きている価値がない」という歪んだ考えであったため、社会もこの判決を当然のこととして受け止めた。
 たしかに許し難い犯罪ではあるが、私は、この判決に同意しない。被害者と家族の苦しみは想像を絶するほど大きく、その傷に他者が触れられないことを承知の上で言うのだが、私は死刑制度そのものに反対だからだ。
 罪の償いを刑の執行で終わらすべきではない、というのがその理由である。罪を犯した者には、自らの行いと最後まで向き合っていく責務がある。社会の側も彼らを内に抱え込み、出来事の意味を考え続けていく必要があるだろう。死による清算はそうした営みを放棄し、何かが終わったという錯覚を人々に与えかねない。人と社会の闇は闇のまま残されてしまうのだ。
 また国家による殺人を、私はどんな場合も容認しない。それは「目には目を」といった報復手段であり(戦争もその一つだ)、人間の理性を衰弱させる制度だからである。死刑もまた犯罪であると規定されるべきだろう。
 やまゆり園事件の背景には社会的弱者に対する差別や無理解がある。そうした風潮をなくし、命の大切さ、慈しみの心を育てていく努力が必要で、私たちの詩もその繋がりの中にありたい。こうしたことを考えていたとき、優れた詩集が二冊届き、胸を打たれた。
 伊藤芳博『いのち/こばと』は、特別支援学校の教員経験から、障害を持った子どもとその親の、生の輝きを記した作品を中心に編まれている。
 巻頭詩「いのち/えらぶ」では、生まれて間もない子が、将来、障害を持って生きていかなければならないと告げられる。病院から帰る電車の中、母親はいきなり突きつけられた不安に悶々とする。だが、それまで笑ったことのない子から柔らかな笑みを送られた瞬間、母親はわれに返り「この子はわたしたちを選んで生まれてきたのだ」と気づかされる。
 ここから伊藤氏は、支援学校の子どもたちの姿を、愛情をもって描いていく。「いのち/ふしぎ」を引用する。
 
レイちゃんは いつもにこにこ/どこでもにこにこ/ヤジロベエのようにゆれている/よこによこに/けれども/まえにすすんでいくふしぎだなあ/(中略)/「お母さん どうしてレイちゃんは/どんなときでもにこにこしていられるんですか」なんでもないことのように返ってきた/「わたしのお腹のなかに/怒りと悲しみを置いてきてしまったので/わたしが代わりに/いつも怒ったり悲しんだりしています」お母さんの絶望と希望のなかを/レイちゃんは/ゆらゆらすすんでいく/腹の据わったという表現があるが/表現ではなく覚悟なんだ/なにも言わないレイちゃんの/ゆらゆらとした表現の支点に/お母さんの覚悟が座っている
 
 覚悟の中から生まれた愛情が、家族の生を豊かにしていくのである。
 もう一冊は、北川ただひと『私からわたしへ』である。こちらはA4の紙に印刷した詩をホッチキスで止めた簡易な作りだが、著者自身の絵や写真も配置された温もりのある詩集だ。
 北川氏は長年福祉の相談員をされてきた方で、そうした経験から生まれた詩を「自由のひろば」等で発表してきた。ここにも、社会の援助を必要とする高齢者を描いた作品が多く収められている。作品のバックボーンにたしかな認識力と論理的思考があるが、北川氏はそれをストレートに出さず、柔らかい物語に転換していく。「橇のマット」を全行引用する。
 
玄関の上がりかまちの前で/エーッと声をたててしまいました/マットに寝かせたお母さんを/マットごとひきずってきたのですこのほうが楽なんです/庭を見たいときは縁側に/トイレのときはその前まで/ゆっくりですから心配ありません/母は喜んでいます/橇にのっている気分だねって相談員のわたしは/介護ベッドの話はやめにしました/目の前の磨かれた床に/工夫と丁寧と信頼が/どっかりと在るのです

 生は個の中で完結するのではない。他者との関わりによって育まれるものだ。「障害者は生きる価値がない」と言った人間にも手を差し伸べ、孤独から救い出していくこと。そこに社会の豊かさも生まれるのではないか。